ブルゴーニュの造り手、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンがはじめて手にした自社畑であり、メゾンの精神的支柱、プルミエ・クリュ「クロ・デ・ムーシュ」が100周年を迎えた。
その記念すべき年を祝うオンラインイベントにWINE WHATは参加した。
2021.7.13
ブルゴーニュの造り手、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンがはじめて手にした自社畑であり、メゾンの精神的支柱、プルミエ・クリュ「クロ・デ・ムーシュ」が100周年を迎えた。
その記念すべき年を祝うオンラインイベントにWINE WHATは参加した。
クロ・デ・ムーシュが100周年を迎えた。クロ・デ・ムーシュというのは、ブルゴーニュ最大規模のドメーヌ、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンがブルゴーニュにもつ80haの自社畑のうちのひとつの畑の名前だ。
組織の100周年ではなく、畑の100周年を祝うのには理由がある。
ジョゼフ・ドルーアンは、その名の通り、ジョゼフ・ドルーアンという人物によって1880年に創業した。しかしこのときは、ワインの造り手ではなく、ワイン商だったのだ。ボーヌの街にワイン貯蔵庫をもち、熟成も手掛けていた。
1918年、ジョゼフの息子、モーリスが会社を引き継ぐと、ワインの安定供給のために畑をもつことを決断。ここで最初に手に入れた畑がクロ・デ・ムーシュだ。それが1921年の出来事だったから、2021年のクロ・デ・ムーシュ100周年というのは、つまり、ワインの造り手としてのジョゼフ・ドルーアンにとって、100周年なのだ。
クロ・デ・ムーシュという畑は、場所的にはボーヌとボーヌの南のポマールの間あたりの、なだらかな丘の中腹にある。広さは14haで南東向き。格付け的にいえば、プルミエ・クリュになるから、現在はグラン・クリュも所有しているメゾン・ジョゼフ・ドルーアンにとっては一歩劣る、ということになるけれど、ドルーアン一族にとって、この畑は精神的支柱であり、格付け以上の特別な意味がある場所だ。
ここのワインは、赤ワインよりも白ワインのほうが価格が高い。ジョゼフ・ドルーアンのワインを独占的に輸入する三国ワインによれば、2017年ヴィンテージでは、シャルドネは希望小売価格23,000円な一方、ピノ・ノワールは18,000円となる。
クロ・デ・ムーシュに限らず、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンのワインは、ビオディナミ栽培をはじめ、非常にナチュラルな農業で育ったブドウを使っていることと、樽を重視していることが特徴だ。
赤ワインはさておくにしても、白ワインに樽を使うことには、ブルゴーニュでは、色々と意見がわかれるところかともおもう。とはいえ、そこは名門、ジョゼフ・ドルーアン。樽を重視しているといって、オーキーなワインを想像するのは見当違いだ。樽とワインとが、不可分な一体化をなして、作品になっている。ドルーアンの樽は特別製だ。2、3年乾燥させたオークを、使う前にはよく洗い、暑い年であれば、樽をあまり焼かず、涼しい年であればやや強めに焼く、などと、ワインの性格にあわせて調整している。常に4000樽ほどを所有し、毎年その3分1ほどを入れ替えるという。
味わってみれば、クロ・デ・ムーシュのワインはブルゴーニュの中心地、ボーヌのワインのまったくもって正統なワインだ。大雑把にブルゴーニュを北にシャブリ、南にマコネーとするなら、クロ・デ・ムーシュが属するボーヌは地理的にセンター。ワインもまさに、そういう印象で、ど真ん中のブルゴーニュワインだと感じる。
ブルゴーニュワインといえば、クリマによって千変万化の個性が魅力だから、これがブルゴーニュワインだ、というのを決定するのは無理かつ失礼な話だし、個人個人の味の好みによって、評価はかわってくるもの。実は、他人にすすめるのが難しいワインが、村名アペレーションや、プルミエ・クリュには、それなりに多いのではないかとおもう。しかし、クロ・デ・ムーシュは、これぞブルゴーニュ、と言いたくなる。価格は高いけれど、相応に品質も高い。なめらかな舌触りからはじまって、ブルゴーニュワインに期待される要素が、きめ細やかに、エレガントに、口中と鼻に豊かにひろがっていく、クロ・デ・ムーシュのワインは、ブルゴーニュワインを飲み慣れていない人は、これがブルゴーニュか、と考えていいとおもうし、ブルゴーニュワインファンにしてみれば、おもわず、自分にとってのブルゴーニュワインとはなにかを、語りたくなってしまうことだろう。
創業者がジョゼフ、クロ・デ・ムーシュを手に入れたのがモーリス。そしてモーリスの息子、ロベールの代になると、事業は拡大し、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンは巨大な造り手へと成長していった。
現在では、ロベールの4人の子どもたちが組織を運営し、ブルゴーニュでは、コート・ド・ニュイやシャブリに、さらに、アメリカのオレゴンにも畑を持つ。
その原点であるクロ・デ・ムーシュは、フィロキセラと第一次世界大戦の影響で、モーリスが入手したときには、見るも無残な状態だったという。モーリスは、ブドウ樹を植え直した。このとき、ブルゴーニュの伝統に従って、ピノ・ノワールとシャルドネとを混植した。そして、ワインもピノ・ノワールにシャルドネを混ぜて醸造していたのだそうだ。
ところが1928年。シャルドネの成熟が遅れて、まず、ピノ・ノワールだけを収穫する、という事態になった。シャルドネは間に合わず、シャルドネだけでワインになったこのとき、モーリスはクロ・デ・ムーシュのシャルドネが素晴らしいワインを生むことを知ったという。
そして、このシャルドネを、仲の良かった、パリの名レストラン「マキシム」のディレクターに持ち込んだところ、300本欲しいといわれたそうだ。世界中にその名を知られたマキシムに選ばれたことで、クロ・デ・ムーシュは、そして、ワインの造り手としてのメゾン・ジョゼフ・ドルーアンは、一躍、ワイン界のスターとなった。
しかし、そういう王座に甘んじないのが、職人気質なブルゴーニュの素晴らしいところ。革新は、ロベールの4人の子供のなかの長男、フィリップによってなされた。
1989年、ジョゼフ・ドルーアンはオーガニックに、そしてさらに、ビオディナミへと舵を切った。フィリップの決断だ。しかし、当初、この決断は全員が賛同したものではなかったという。それでも、幼いころからワインとともに育ったフィリップには、父、ロベールの言葉が看過できなかった。
「農業技術の劇的な発展によって、ブドウは以前にも増して、青々しく、強くなった。その結果、よいワインが少なくなった」
さらに、彼が師事した栽培の専門家たちの口からも、化学的な農業に未来はない、という言葉が聞かれた。
フィリップは、徐々に、オーガニック栽培へと切り替えていった。最初のうちは苦労したという。
「畑にはすでに銅が撒かれすぎていました。私は銅の使用を減らし、硫黄の使用も減らしてゆきました。強いブドウ樹が必要だと考えたからです。」
銅と硫黄というのは、オーガニック栽培でも使用が許されているボルドー液のことだろう。自然な栽培を求めて、90年代になると、ビオディナミを学び、栽培をさらにナチュラルな方向にすすめていった。
トラクターの使用も、現在では控えていて、馬が代わりをつとめている。トラクターによって、土が踏み固められれば、土中の空気が減り、細菌のバランスに悪影響があるのではないか、と考えてのことだという。
フィリップはこう言う。
「再植樹のたびに、いまでも悩みます。樹を植えれば、その樹とは50年ほどの付き合いになる。温暖化に耐性があるブドウ樹がいまは欲しい。しかし、それは50年後でもそうでしょうか。伝統的な1メートルおきの植樹は正しいのでしょうか。ピノ・ノワールとシャルドネを植えることが正解でしょうか。 約25年から20年前、我々は水不足に強く、早熟な品種がよいと考えて植樹をしました。しかし、その15年後、温暖化によって収穫期は早まり、いま、我々が求めているのはまったく逆のことです。いま、よかれとおもってなした決断が、多様性を奪い、可能性を潰してしまうかもしれない。」
フィリップの選択は、自然の力を引き出すことで、人間の予想を超えた未来にも対応できるのではないか、という考えから来ている。
クロ・デ・ムーシュは、丘にあるから、畑は下と中腹と上とで環境は異なるという。だから、栽培において、ひとつのやり方がすべてにおいて正解、ということはないのではないか、と問う。区画をわけ、収穫期をわけて摘まれたブドウを、別々に、当然のように、天然の酵母にて醸造し、テイスティングを重ねるけれど、樽はワインの自然な呼吸を妨げないために必要だ、という醸造長の長女、ヴェロニクもまた、ワイン自らの成長を見守っているようだ。
もちろん、白ワインでもマロラクティック発酵をするし、赤ワインはピジャージュもルモンタージュもする。最終的には入念なテイスティングを経たワインがアッサンブラージュによって完成する。だから、人為的な操作はもちろんなされている。それでも、栽培においても、醸造においても、ドルーアン家は常に迷い続け、決断の一端を自然に委ねているように感じられる。あるいは、人間の都合だけで決めない。自然とともに歩み、自然の声を聞く。そういう一族が代々、ワイン造りを受け継いでいく。
それはとてもブルゴーニュ的ではないだろうか。だから、やっぱり、このワインは、正統に、実にど真ん中のブルゴーニュワインだ、と筆者は言いたくなる。