撮影は東京・恵比寿の「FISH HOUSE OYSTER BAR」にて。石川がフードトリップをはじめたころにたまたま訪れた店だが、後に、丹後の食材で繋がってい
たことを知り、以来、石川の転機の舞台となりつづけた因縁の店
料理人、石川進之介
石川進之介は料理人だ。その原点は、小学生のころ、自宅のとなりのマンションに住む女性に英語を習っていた経験にある。週末、その人物はホームパーティーを開催していて幼い石川もそこに参加していた。その楽しさから、料理はみんなを笑顔にするもの、と考えるようになった。
興味ある食材を買い漁っては、料理していた石川少年は、成長するにつれて、バスケ、サーフィン、バイクと趣味を持ったけれど、料理への情熱も持ちつづけた。
「高校生のころ、近所にジャズが流れる和食屋さんがあったんです。そこのおでんの盛り付けに感動しちゃって。目の前で焼かれる焼き鳥も、おしゃれだった。それで、料理長にラブレターを書いたんです」
それで、その店の手伝いをするようになって、大学生のころには焼き場にも入るようになった。カフェブームがやってくると、創作料理の最先端を行っていた「ニューズデリ」に憧れ、そちらにもラブレターを書いて関わるようになる。2軒かけもちで、大学には行く時間もなくなり、自主退学後、『ガンベロ・ロッソ』も勧める日本の食材を使うイタリア料理の名店「ポンテベッキオ」に所属することになる。そしてここを基点に、研修や旅行で、世界中の食に出会い、なにより日本に出会った。
「このときの経験で、僕は自由になった。一期一会のそのとき提供できるもので料理をすればいいんじゃないか、っておもえるようになった」
かくして、出会った食材で料理をする、 石川進之介が誕生した。
イベントプロデューサー、石川進之介
ところが、プロとしては、ほどなくして料理の世界から離れてしまう。
「僕はどうも店に所属するようなタイプじゃない。それに、料理の世界にも耐え難い部分はあって、陰湿ないじめをするような人もいるんですよ。美味しいものをつくる人が、そ
ういうことにエネルギーを使うのはおかしいとおもって」
そこで、ファッションも好きで、「A.P.C(アー・ペー・セー)」に憧れのスタッフがいたから、A.P.C. で働きたいとラブレターを書いた。すぐにはA.P.C. に所属できなかったけれど、それでもアパレル業界の裏方にはなって、その後、「憧れの店員さん」の異動の際、そのポジションを引き継ぐ形でA.P.C. に所属することになった。ここで、どっぷりファッションの世界につかった。
「でも、華やかなアパレルの世界も、裏側から見てみると必ずしも華やかなことばかりではないんです。特に、食に関しては二の次の人がおおかった。僕は本当のかっこよさって、いい食べ物も知っていて、装いもかっこいい、内面と外面からかっこいいことじゃないか、とおもったんです」
それで、同僚のスタッフの昼食をつくったりしているうちに
「日本でもショーでフィンガーフードを出したり、ケータリングなんて言葉もでてきたんですね。それでブランドの日本のショーで顧客向けのフードやドリンクを提案するようになったら、だんだん、うちには石川がいるからって、食の仕事がきて、頼られるようになったんです。僕の強みはやっぱり食。そのうち昼は店舗で働いて、夜はイベント企画。あまり寝てなかったですね(笑)美容師、DJ、デザイナー、僕が食で、それぞれの頭文字をとった「WiSY」というグループを立ち上げて、新聞にも載るようなモン
スターパーティーを企画するようになったり。どんどん有名になって。それが、25、26のころ。すごく遊んで、食とファッションとアートが一緒になって、楽しかった!」
有名ブランドとかファッションビルの食を任されるようになり、すっかり売れっ子になった石川進之介は、独立を決意する。そして上司にこう言った。
「地域を活性化させたいから、この仕事、辞めます!」