ダンヒルを輸入せよ!
1991年から95年、ジョルジオ アルマーニ ジャパン副社長、2004年から06年、グッチグループ ジャパンのイヴ・サンローラン・ディビジョンCEO、2008年から12年、バリー・ジャパン社長。酒井壽夫の経歴には、このほかにも、ダンヒル、チェルッティ、フィラ、エンリコ コヴェリ、ミッソーニ クラブなどなど、めまいがするほどファッションブランドの名前が登場する。
ある意味で日本の風景すら変えたであろう、この洒落者に、「酒井さんはそもそもファッションがお好きだったんですか?」とたずねると、ハッと笑った。
「当時、商売にするというほどの興味はないよね」
イタリアの太陽のように屈託のない口調で、こうかえしてきた。質問とこたえがかみあっていないように筆者が感じているのを尻目に、酒井はつづける。
「1971年にダーバンができて、72年にアラン・ドロンをつかったTVCMをうちだした。これは日本で洋服のブランドのTVCMとして、はじめての大ヒットだった。誰しもがダーバンは外国のブランドだとおもった。百貨店ではダーバンが飛ぶように売れた。だってアラン・ドロンが着ていて、フランス語でなんかいうんだから。それまでのファッションのCMは日本人のモデルで、日本の歌がながれていたりしたのに。つまり72年がファッションビジネス元年なんだよ」
そのころ、酒井壽夫はといえば
「1972年に伊藤忠商事にはいって、たまたま配属先が輸入繊維部輸入紳士服地課というところだった。そこがなにをやっている部で課でっていうのも知らないまんま。はいってみたらどうやら輸入のファッションらしきことをやっている」
「72年だからさ、輸入のブランドなんていうのはほとんどなくて、ライセンスばかりだった。ヨーロッパのほうでは、すでにメゾンがどうだ、ブランドはああだこうだ、というのはあったけれど。それを、我々の課では、輸入の商品を売りましょう、とやっていた。海外ブランドといえばピエール・カルダン全盛の時代。サンローラン、ニナリッチ、ランバン、ジバンシィ……」
輸入とライセンス。輸入とは外国で売っているのとおなじものを輸入して日本で販売すること。ライセンスは、デザイン画などをもらって、服は日本でつくることだ。ライセンスビジネス時代は百貨店がつよかった。百貨店がブランドのライセンスを獲得し、百貨店なじみのアパレル会社が服をつくっていた。ブランドは百貨店ごとのエクスクルーシブなもので、ブランドのプレステージが百貨店のプレステージをたかめた。
しかし、そうするとどうしてもブランドは百貨店の事情に制限される。百貨店AをえらべばBでは売れない。ここに商社が目をつけた。輸入であればその制限はない。ブランドに対する殺し文句となった。
おもにイタリアの生地を輸入し日本のアパレル会社に展開していた酒井壽夫は、1983年、伊藤忠商事がダンヒルの独占輸入権を獲得するための仕事をまかされる。手渡された時点では、ほとんど口約束しかなかったものを、酒井は2年弱をかけて、契約書をつくり、交渉をかさねて、タバコをのぞくダンヒルの総合輸入販売契約をむすぶことに成功する。と同時に、その周囲にいくつかの日本ならではのダンヒルブランドもたちあげた。
たとえば、ダンヒル スポーツ。ゴルフやテニスの用品のダンヒルブランドで、デサント社と組んでのライセンスビジネスとしてスタートした。
このダンヒル スポーツは、立ち上げのPRにと、1984年9月、日英対抗ゴルフ大会を開催。英国のグレンイーグルスには中嶋常幸、新井規矩雄、尾崎健夫、尾崎直道、倉本昌弘、青木功など錚々たるプロゴルファー8名が日本から参戦し、対する英国も8名のプロ選手で迎え撃った。
各ゴルファーのために仕立てたウェアは酒井が持参したのだけれど
「でもこのときはまだ契約はなかったんだよね。お互いにサインしてないから」
ともかくもダンヒルとの大仕事を成し遂げた。直後、酒井はミラノに飛んだ。