
2年前に2年がかりの修復が完了したクリュッグのメゾン。創設者のヨーゼフ・クリュッグをはじめ、歴代当主がここで暮らした。地下には熟成中のボトルやリザーヴワインが眠るセラーがある。
フィオラノでプロトタイプをドライブするようなもの!
シャンパーニュの世界でクリュッグといえば、車ならフェラーリ、時計ならパテック・フィリップに値する至高の存在。
ランスのメゾンに招かれ、そこでヴァン・クレール(アッサンブラージュ前の原酒)を試飲することはすなわち、マラネッロからの招待状を受け取り、フィオラノサーキットでフェラーリのプロトタイプをドライヴするに等しい栄誉である。4月末、招待状を懐にパリからランスを目指した筆者。目的地までの短い時間に、この偉大なるメゾンのバックグラウンドをおさらいすることにしよう。
クリュッグは1843年、ドイツのマインツに生まれたヨーゼフ・クリュッグによって設立された。34歳でパリに出てきた彼は、すぐさまシャロン・アン・シャンパーニュの大メゾンに就職。そこに8年奉公したのち、「唯一無二のシャンパーニュを造る」ことを夢見て、ランスに自らのメゾンを立ち上げたのである。
数年前に公開されたヨーゼフ・クリュッグの手帳には、まだ6歳のひとり息子、ポールに宛てた、シャンパーニュ造りの心得が記されている。
「偉大なシャンパーニュを造るには、優れたブドウ畑が不可欠なり。ブドウの質が理想に届かぬといって安易に妥協すれば、メゾンの評判はいとも簡単に失墜すると心得るべし」
シャンパーニュ造りの心得が綴られた初代、ヨーゼフ・クリュッグ(1800-1866)の手帳。彼は41歳で結婚し、42歳でひとり息子のポールを設け、43歳でランスにメゾンを創設した。1866年に逝去。ポールが継いだ。
この妥協のない完璧主義こそ、クリュッグをクリュッグたらしめるもの。ル・メニル・シュール・オジェの単一畑から造られるブラン・ド・ブランの「クロ・デュ・メニル」は、99年ヴィンテージを醸造し、パッケージまで用意しておきながら、間際になって出荷を取り止めたのがよい例だ。6代目のオリヴィエ・クリュッグは、「クロ・デュ・メニルに求められる何かが欠けているから」と、その理由を述べた。幸運にも筆者は、本来門外不出のクロ・デュ・メニル99年を2度にわたって味わう機会を得たが、十分以上に素晴らしい出来。クリュッグの完璧主義に心底驚かされたものである。
6代目のオリヴィエ・クリュッグ。89年から2年間、日本に滞在し、今ほどクリュッグの名が知られていなかった日本市場を開拓した。現在は日本が最大の市場だ。