子どもの頃、我が家の天敵が「姿」だった。給料日、おやじはよくこの店に寄ってから帰ってきた。ひと月ため込んだつけを払うためである。だから、その日、おふくろはいつも不機嫌だった。給料の上前を、飲み屋にはねられてしまうのだから、おもしろいわけがない。
しかし、おやじは「姿」に通うことをやめなかった。「姿」って、どんな店なんだろうとずっと思っていた。居酒屋なのか、スナックなのか、バーなのか。。。。わかっていたのは、神楽坂にあるらしいことだけだった。
私が「姿」を見つけたのは偶然だった。友だちに、おいしい馬刺を食べようと連れてこられた「相馬」という店を出たとき、斜め向かいにあった「姿」の看板に気づいた。親父には不釣り合いに思える、粋な小料理屋だった。この店が、我が家の天敵だった、あの姿なのだろうか?
しばらくして、夫婦で世話になっている人と神楽坂で呑むことになったとき、この店に行ってみることにした。
親父は、有名人だった。女将さんや大将はもちろん、常連客もみんな、親父のことを覚えていた。酔っぱらって、そのまま2階に泊まった話、常連客たちに、議論をふっかけては、からんでいた話、ある客と議論に熱くなりすぎて、けんかのようになった後、二人で裸になって踊っていたという話、案の定、あまり品のいい酔っぱらいではなかったようだ。しかし、その話し振りから、嫌われてはなかったらしいことがわかったので、少しほっとした。
いい店だ、と思った。女将さんの気配り、大将の心のこもった料理、そして、気さくな中にもどこか品格や凛とした空気を感じさせる。常連客のつくる空気感もいい。家族にあきれられ、いやみを言われても、この店に通ったおやじの気持ちがよくわかる。
親父の行きつけだった店を偶然発見してから、もう何年経っただろう。親父に変わって、今では私がせっせと通っている。親父の話をたくさん聞かせてくれた、女将さんは亡くなってしまったが、店の居心地の良さは変わらない。大将のつくる丁寧な料理も変わらない。