
12世紀にポルトガルの独立を宣言し、初代ポルトガル国王となったアフォンス・エンリケスが誕生したギマラエス城。父親はブルゴーニュの貴族だった。写真はプレス用資料より。
サンティアゴ広場
丘の上の元修道院のホテルから小型バスに揺られて最初に行ったのは、初代ポルトガル国王が生まれたギマラエス城だった。休館日だったので外からしばし眺めるにとどまったけれど、考えてみたら、ポルトガルの歴史について自分はなんにも知らないことに気づいた。
ポルトガル発祥の地とされるギマラエスは、中世さながらの街並みが残る古都だった。10世紀、ポルトガルという国はまだどこにもなかった。この地方の信仰心の厚い貴族の未亡人が自分ちの荘園にサンタ・マリア修道院という修道院をつくった。その修道院を北から襲ってくるノルマン人、つまりバイキングと南からやってくるイスラム勢から守るために城が築かれた。11世紀の終わりなると、イベリア半島はキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)のさなかにあった。時が過ぎ、11世紀の終わりになると、人口が増えて、街ができた。
アフォンス・エンリケスがギマラエス城で生まれたのは12世紀の前半で、ギマラエスの街にはその頃つくられた建築物がいまも残っている。
旧市街の中心プラサ・デ・サンティアゴ(サンティアゴ広場 Praça de São Tiago)。11世紀の街並みをいまに伝える。
隣のオリベイラ広場のオリベイラ協会の前のゴシック様式のアーチ。1340年のサラードの戦いの勝利を記念してつくられた。このアーチがある広場はサンティアゴ広場から続いている。
地元のワイナリー「アデガ・デ・ギマラエス(Adega de Guimaraes)」の代表ジョセ・ブラーガ(José Braga)さんとエノロゴ(ワインメーカー)のペドロ・カンポス(Pedro Campos)さん、ふたりを囲むテイスティング・ランチはこの世界遺産の街のなかにある、庶民的な食堂「アデガ・ドス・カキンホス(Adega dos Caquinhos)」で開かれた。
「アデガ」というのはポルトガル語で「ワイン醸造所」と「ワインセラー」、ふたつの意味があって、アデガ・ドス・カキンホスは呑み屋時代の名前をそのまま使っているらしい。おかみさんがひとりでつくるポルトガルの伝統料理を出す店で、地元のひとにも人気があるという。私の席から振り返ると、彼女が黙々と料理している後ろ姿が見えた。
黙々とお料理中。
アデガ・デ・ギマラエス、正式にはAdega Cooperativa de Guimarães(「ギマラエス協同組合ワイナリー」)は、ギマラエス周辺の82のワイン醸造業者が集まり1962年に設立された。大西洋に面した大都市ポルトから北東に60km走った内陸で、ヴィーニョ・ヴェルデのサブ・リージョンとしては「アヴ」地区に属している。
「50年以上の伝統を持つ古い組織です」と代表のジョセさんは誇らしげに言った。創立時は国内のみの販売だったけれど、最近は輸出が重きを占めるようになっており、日本市場は魅力的なので、なにが求められているのか知りたい、とみずからの目的を率直に述べた。
「日本には1億人いる。ここはその10分の1しかいない」
「東洋の日本と西洋のポルトガルの文化は遠く離れている。でも、ヴィーニョ・ヴェルデを介して通じるものがあるのではないか、というのが私の考えです。ワールドカップでも、ポルトガル人は決勝に進んだ日本を応援していたし、日本の人びともポルトガルを応援してくれていたと思う」と続けた。
なんせポルトガルにはクリスティアーノ・ロナウドがいるからねー、と私は内心思ったけれど、黙ってふむふむと聞いていた。この日は7月5日(木曜日)で、サッカー・ワールドカップ・ロシア大会たけなわ。ポルトガルは6月30日にウルグアイに2-1で、日本は7月2日にベルギーに先取しながら3-2で敗退したばかりだった。