広島の戦後とお好み焼
創業大正11年。「お好みソース」で全国に知られるオタフクの歴史は、酒と醤油の卸、および小売の「佐々木商店」からはじまる。メーカーとしては、いまも酢を造りつづけている。意外にも、「お好みソース」は戦後、昭和27年に生まれていて、ソースメーカーとしては最後発組だという。
戦後、広島市内には屋台のお好み焼屋ができ始めた。広島は軍都で、重工業など鉄を扱う工場が多く、比較的鉄板を手に入れやすい環境にあったと言われている。夕食として、また、お酒を飲んだ後に立ち寄るお客さんで賑わっていた屋台のお店に、オタフクは市場を見出し、お好み焼に合うほどよい粘性と独特の甘さをもった、お好み焼用ソースを造りだした。屋台や店をまわって、意見をきき、ソースを改良して、と地道で苦労もおおい商売だったようだけれど、結果的に、そこは後発のソースメーカーにとってのブルーオーシャンだった。
広島でひろまったオタフクの名が、全国に知られるようになったのには、色々と理由が考えられるけれど、佐々木直義はこんな風にいうーー
「広島は人口はおおいけれど、平地の面積はそう広くない。外にでてゆく人もおおかったんです。それで、広島を離れた広島人がお好み焼をひろげていってくれて、オタフクソースも一緒にひろがっていきました」
口コミによって全国にひろがったオタフクソース。かつては、広島に来たひとが、一升瓶にはいったお好みソースをまとめて買って帰る光景も見られた。いまや、販路も製造拠点も、日本国内には収まりきらない。アメリカ、中国……マレーシアではハラル対応のソースも造っている。
佐々木直義、LAにゆく
そんなオタフクソースの海外展開に重要な役割を果たしたのが、佐々木直義だ。創業者、佐々木清一の代から数えると3世代目にあたる。
おそらく若いころから、旅人気質だったのだろう。大学卒業後、オタフクソースに入社すると「お好み焼を世界広げる」という大志を胸に、アメリカへと飛んだ。アメリカ人はお好み焼が好きだろう、と考えていた。
ロサンゼルスに事業部を立ち上げ、そこで、経営者となったのが1998年。チームを編成し、全米の料理店をまわって、お好み焼の焼き方を教えて歩いた。ところが、結果的に、これはうまくいかなかった。
味は評価されたものの、お好み焼は現地の料理店のスタッフがつくるには、複雑すぎたのだ。当時はまだ、ロール寿司がはやりはじめたばかり。そこからお好み焼までは遠かった。
結局、ロール寿司に向けた調味料としてうみだした、粘性が高く、甘い、スシソースが主力となった。
「いまにしておもえば、それで特許をとっていたら、もっと展開が違っていたかもしれない」
そんな風に冗談めかしているけれど、当時の苦労は相当なものだっただろう。そんな、米国料理界を相手に、悪戦苦闘をつづける日々に、ワインにも出会ったという。
「アメリカはステーキにバーボンのイメージだった。ところがカリフォルニアは、いまから20年近く前でも、ワインを飲んでいた。知りあったシェフたちに、あれがおいしい、これがおいしい、といわれるたびにワインを飲んで、好きになった」
スターワインとよばれるワインも、当時はもっと手軽だったという。いまもワイン好き。お好み焼にも、個人的にはワインをあわせる。「WoodEgg お好み焼館」のワインセラーには、佐々木直義が持ち込んだワインが入っている。